海外レポート/エッセイ
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冷泉 彰彦(れいぜい あきひこ)   作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空気」「場の空気」
アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』。訳書に『チャター』。
最新作は『「上から目線」の時代 (講談社現代新書)』。
またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。

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第473回 「謝罪要求外交から和解の外交へ、広島慰霊祭へのルース米大使出席に思う」
配信日:2010-08-07
 広島の65回目の原爆記念日に、米国のルース大使が慰霊祭に列席しました。黒いネクタイを締めて終始厳粛な表情を見せていた大使の姿は、TVジャパンの衛星映像でも明らかで、私は深い感慨を覚えました。思えば、ここに至るまでの道のりには、2008年9月にナンシー・ペロシ米下院議長の広島における慰霊碑への献花というステップがありました。この時は、先進八か国下院議長会議を広島で開催するという流れの延長で、ここまで持っていったわけで、当時の日米関係者には大変な苦労があったと思います。にもかかわらず日本国内での反応はあまり大きくなく、議長達を乗せて政府専用機を広島まで飛ばしたコストへの批判など、トンチンカンな報道の方が目立ったのは残念でした。

 それはともかく、2年に一度全員が改選される米国の下院、その議長が献花をしたというのは大きな事件だったと思います。とはいえ、外交慣例上、立法府は国家を代表することはできないのに対して、特命全権大使というのは対日本外交に関して、アメリカ合衆国政府の全権を委任した存在であり、その信任状を天皇に捧呈している(国内的には国事行為は政治性や外交上の効力はないように思われていますが、国際的には天皇への信任状捧呈は特命全権を正式に受け入れる行為と理解されています)わけで、その重みは全く違うと思います。まして、今回は他でもない8月6日、広島原爆記念日の正に投下時刻に爆心地で行われた慰霊祭への出席ということですから歴史的だと思います。

 ちなみに米国での報道ですが、翌朝、6日の金曜日の時点でのリアクションはほぼ皆無でした。こうした問題には積極的なはずの『ニューヨークタイムス』でも締切りには十分間に合うはずの印刷版では扱いはゼロ、電子版も朝7時少し前に簡単な更新が入っただけでした。内容も国連事務総長の参加のニュースが主で大使出席は数行の紹介だけ、これでは、まるで新華社通信がよくやる「論評抜き」のような扱いです。TVに至っては、CNNもNBCも朝のニュースでは全く取り上げていませんでした。ちなみに、NBCは朝のニュースの中で、広島カープの赤松選手が、横浜の村田選手のホームラン性のボールを捕球したファインプレーを取り上げていました。扱いとしては、そのニュースよりも「下」ということですが、勿論、オバマ政権を窮地に陥らせないために、リベラル系のTV局としては「スルー」したという理解が正しいのだと思います。ルース大使の出席により「アメリカが謝罪した」ということになると、今でも反対論が出るのはどうしようもないことだからです。

 では、このルース大使の出席という事件は、米国の謝罪なのでしょうか? そしていつの日か実現すべきである、現役の合衆国大統領による広島献花という問題は、同時に謝罪の言葉を要求すべきなのでしょうか? 私は、今回の慰霊祭の厳粛な様子を見ていて思ったのですが、この現実に起こった核攻撃の問題について、そして他にも多くの事例のある歴史認識の問題において、過去の事件に関して、それがいかに非人道的なものであっても、また以降は人類社会として禁止していかなくてはならないような深刻なものであっても、世代をはるかに下った現在の政権に「国家としての謝罪」を要求することは難しいのではと思うのです。

 例えば、広島と長崎において米国の大使が慰霊祭に出席する、あるいは大統領が献花をするというのは、次の三つの位置づけで良いのではないか、そう思います。1)膨大な死者への心からの哀悼の意、2)悲惨な核攻撃を二度と起こさないという決意、3)このように悲惨な戦闘を戦った日米両国の永遠の和解、、この三つの点で、誠意が込められているのであれば、「謝罪」というのは要求する必要はないのではないか? 今回の大使の姿を見ていて私はそうした考えに至りました。

 こう申し上げると、まるで米国に屈服する卑屈な態度のように思われる方もあるかもしれません。ですが、例えば同時並行で進んでいる菅首相の「日韓併合100周年談話?」の可能性についても同じことが言えるように思うのです。談話というのは100年の節目ですから、あっても良いし、それが併合の日の22日ではなく1週間前の敗戦記念日かつ先方から見れば「光復節」である15日に出すというのも良いと思います。ですが、内容は米国による広島・長崎での献花と同じように、1)弾圧や戦前戦後の混乱期における韓国での犠牲者への哀悼、2)隣人かつ友好国として二度と韓国を植民地化しないという決意、3)加害・被害国という関係の清算と永遠の和解、という内容で良く、現在形での「謝罪」は必要がないのではないか、そう思うのです。

 村山談話はまだ良いのです。村山富市という人の世代は、戦争も植民地支配も現在進行形で経験した世代でした。ですから、謝罪の言葉が出たのは個人的にも自然であるし、またなかったとしたら説得力はなかったと思うのです。ですが、菅首相は違います。世代的に戦後世代である菅首相は、直接間接に「日本による韓半島の植民地化」という問題には関与の余地はありませんでした。ですから、植民地化の謝罪をすることも、正当化をすることも「1910年から1945年の35年間という過去」に関しては当事者世代ではないのです。また100年前の「併合」との関係で言えば、戦後の平和国家としての実績により「国体が連続的に浄化された」こともあって、「併合」を決定した桂太郎政権の代理で謝罪する必要はないし、その権限もない、その点が一つあります。

 もう一つは、残念ながら「現在形で国を代表して他国に謝罪をする」という行為について、それは全員の総意にはならないという事実があります。日本とアメリカが典型なのですが、国家というものを「まず前提としてあるもの」と考えて「その名誉と国力を守ることが自分を保護してくれる」という感覚を持つ人(仮に保守と呼ぶことにします)と、国家というものを「先にあった個人が機能として選択した機関」だと考えて「国家は時に誤るし、それを修正するのが自分を含めた個人の責任」という感覚を持つ人(仮にリベラルと呼ぶことにします)の分裂は激しいものがあるのです。

 保守の発想からは、例えば日本で「菅談話の謝罪」に反対している人、あるいはアメリカの「ティーパーティー」のマドンナであるサラ・ペイリン女史が「米国は一切謝罪しない」などと言っているように、国家の名誉が個人の名誉に直結してしまっているのです。そうした保守の態度に対して、リベラルの側は正反対の感覚を持っています。個人が国家の罪を断罪することが可能であり、またそれが可能になっている政治体制が善という感覚です。ですから、自分の国家が罪を背負った場合に、その国家を自身が断罪しつつ、その国家を代表して対外的に謝罪を行うことは善だということになるのです。

 その心理としては、表面的には道義的に正当だということがあり、その奥には「自分という個人は国家という性悪な組織よりも偉い」という過剰な自尊感情があり、更にその奥には「そうした個の突出を許す政治体制への誇り」があり、裏返しとしての「個の尊厳を丸ごと国家に委託してしまう人間への侮蔑」もあると思います。ですから、リベラルの多くは、保守の立場の人間に対して、「日本の恥」であるとか「アメリカの恥」というように見下げた姿勢を取ることが多く、その結果として保守の側はどんどん強硬になっていく、その帰結として保守から見るとリベラルは他国の名誉に荷担して自国の不名誉に与する「裏切り者」と考え、リベラルの側は保守のことを不道徳な行為の反省が出来ないことから、まるで「罪人」であるかのようなと非難と蔑視を加える……とにかく国論は真っ二つに引き裂かれる悪循環になってしまうように思います。

 国家を代表して過去の歴史に関して謝罪するということは、従って、どうしても国論の半分しか代表しないばかりか、残りの半分の人間の名誉を踏みにじり、見下す行為になってしまうのです。「現在形での謝罪」というのは、ですから国内的には分裂を悪化させるという政治的に避けるべき行動になりますし、その結果として「謝罪反対派」が顕著な反対運動をするようになると、相手国に取ってはショックが大きいことになるでしょう。例えば、日本の保守派が追い詰められた挙げ句に「謝罪談話絶対反対」として大規模な集会を行ったり、アメリカの「原爆投下必然論者」がワシントンで大きなデモを行ったり広島に乗り込んできたりしたら、韓国や日本は驚くでしょうし、反対行動がエスカレートしてしまうと、現在進行形での二国間関係にヒビが入る可能性もあります。一般論として、「謝罪要求外交」は「和解の外交」にはならないと言っても良いと思います。

 一つだけ注意しておかなくてはならないのは、アメリカの「原爆投下は正しかった」という立場ですが、これはペイリンなどの「ティーパーティー」つまり草の根保守だけではありません。この辺は複雑なのですが、共和党の中には例えば92年から2000年の大統領候補予備選を戦って有名になったパット・ブキャナンのように「日米が戦ったのは誤り。ルーズベルトは日米の提携で反共戦争を戦うべきだった」などという「風変わりな親日」もいるのです。むしろ第二次大戦を戦い、勝って日本を改革したという自負を持っているのは団塊の世代より上の「クラシックな民主党」の方であって、オバマとしては下手に「謝罪」をして、このグループの「虎の尾」を踏むことはできないという事情もあるのです。

 謝罪の問題に加えて、もう一つは、外交原則における「相互性」という厳粛なルールの問題があります。片方の国が一方的に謝罪し、もう一方の国はそれは当然のこととして受け入れる、その一方で謝罪の行われた国では謝罪反対派が勢いづいて政権が動揺すると共に、謝罪反対派の存在が相手国にショックを与えて、却って関係が悪化する、そうした悪循環を断ち切るためにも、「相互性」という問題は非常に重要です。

 例えば、菅首相が併合100年に談話を行うのであれば、韓国の大統領が広島の慰霊祭に参列して「原爆投下は独立回復のための勝利の一撃」という歴史観を訂正して韓国人被爆者だけでなく、日本人被爆者への哀悼の意も述べるとか、何らかの相互性が必要だと思います。今の例は韓国側では大変な議論を引き起こすかもしれませんが、帝国日本は許さなくても被爆者への哀悼は可能ではないでしょうか? 例えば今回の潘基文国連事務総長(元韓国外交通商相)の韓国の政治家としては異例の日本語を交えた素晴らしいスピーチなどを契機にそうした気運が出てくればとも思うのです。

 さて、相互性という大原則の必要なのは日米も同じです。つまり、合衆国大統領の広島・長崎での献花が実現するには、日本の国家元首による真珠湾での戦艦アリゾナへの献花という行動があるべきだと思います。この点に関しては、アメリカ政治を対象としたジャーナリストの大ベテラン、共同通信OBの松尾文夫氏が『銃を持つ民主主義』『オバマ大統領が広島に献花する日』という本で述べておられる主旨に私は全面的に賛同します。また、この二冊で松尾氏が紹介している「死者と死者の相殺はしない」という1995年の2月、連合国によるドレスデン空爆の50周年追悼祭において、当時のドイツ連邦共和国(統一ドイツ)のローマン・ヘルツォーク大統領(当時)が行った演説に貫かれている思想は極めて重要だと思います。

 松尾氏はまた「相互献花外交」を一貫して主張する中で、真珠湾での日本国総理大臣の献花をすべきと主張しています。ですが、私は内閣総理大臣の献花では、相互性は十分に確保できないように思うのです。日本国憲法においては国内法的な形式論としては、天皇の地位は国家元首ではないというような曖昧な位置づけになっていますが、外交儀礼上、そして米国の世論の期待ということでは、こうした歴史的な献花を行う際に、日本を代表するのは天皇皇后両陛下でなくてはならないと思います。まして、現在の日本の首相というのは、二大政党の双方が世論から不信任を突きつけられる中で精神的な求心力や代表能力は持たされてもいないし、期待もされていないわけで、そのような存在の首相が献花を行っても、日本側として国民を代表した哀悼の意を託すことは不可能です。

 今回の広島での慰霊祭でも、秋葉市長の平和宣言(但し、広島弁の使用は翻訳不可能なので以降は止めていただきたいです)、潘基文国連事務総長、子供代表のスピーチなどと比較した場合に、菅総理のスピーチはどうしても内容と語気の点で負けていました。スピーチ原稿の質もさることながら、演出家のダメ出し付きで練習した形跡もないまま「一発勝負でしっかりやろう」というシロウト臭さ、それは菅直人という政治家の限界というよりも、現在の日本国総理大臣の置かれた位置を象徴しているように思うのです。過去の10人ぐらい遡っても同じことでしょう。総理のスピーチが「子供代表」の後になっているのは、長年の自民党政権に対する広島市の反発からそうした伝統ができているのかもしれませんが、今回の菅首相のスピーチはそれをはね返す迫力はまるでなかったと思います。

 松尾氏が天皇ではなく首相で構わないとしているのは、天皇の政治性を否定した方が意味があるという判断だと思われます。確かにそれは戦後日本の「憲政の常道」からは正しいのです。ですが、上記の理由により、そして米国側の世論を考えると両陛下に行っていただく、その際に勿論首相、外相、防衛相と両院議長、自衛隊の各幕僚長以上も同席する、オバマ大統領が広島で献花をする際には、米国の国務長官、国防長官、両院議長と統合参謀本部のメンバーも同席するということが必要だと思います。ちなみに、軍のトップが参加するというのは、謝罪ではなく、和解と哀悼という共同行為を、他でもない過去の軍事的な事件に関して行うのですから必要と思います。

 ところで、オバマ大統領の献花について、今年のつまり2010年の11月の訪日時にという期待がありますが、私はこれには疑問を感じます。現在のオバマ大統領は、景気回復の遅れに苦しむ中、そのフラストレーションを人種的な自尊感情を高めることで「はけ口」にしようという「ティーパーティー」に攻撃されて政治的にも苦境に立っています。そんなオバマ大統領が、2012年の再選が全く「自動的には期待できない」中で、中間選挙の審判が下った直後に広島で献花するというのは、政治的には自殺行為になってしまう可能性があるのです。勿論、二期目がダメそうだから「オバマが大統領のうちに早く」という「現実的な」期待感もあるかもしれませんが、それは邪道な考えだと思います。

 やはり、オバマは2012年に勝って二期目を堂々とスタートさせ、後は歴史の審判に向けて大きな仕事をするという環境が整う中で、その一環として広島献花ということに持っていくのが正当だと思うのです。そして、それは謝罪要求とその受諾の検討というプロセスを必要とはしない、ひたすらに追悼と和解の儀式であるべきです。

村上龍RYU'S CUBAN NIGHT